最終更新日:2005.10.23
 草土文化発行の月刊誌「子どものしあわせ」2005年3月号の特集「クルマ優先でなく生命を守る街づくり」に、当会が編集協力しました。「クルマ社会と子ども」アンケートの紹介、通学路の安全確保、子育てとクルマなど、広範囲にわたる多数の記事が掲載されました。
 その中からここでは、クルマを使わない子育てを実践している方々の意見をご紹介します。

2005年6月15日更新・「子どものしあわせ」2005年3月号掲載記事


発見いろいろ クルマに頼らない子育て

クルマがあれば子育ては楽。けれど、ないから得られるメリットも。
「クルマなし子育て」を実践している皆さんが、その利点や楽しみをお伝えします。
(構成:クルマ社会を問い直す会・クルマなし子育てワーキンググループ)



◆維持費不要で心も豊かに
[埼玉県朝霞市在住・男性]
 私の住む街は電車やバスに恵まれているので、車庫代やガソリン代のいるクルマを持たずに済んでいます。
 子どもができてからも、歩きと自転車の生活のまま4年が過ぎました。重い荷物の買物をしたときや、雨の日、子どもが眠ってしまった時などはタクシーを使いますが、クルマを所有するよりずっと安く済みます。
 歩きと自転車で過ごしていると、子どもが距離感覚・方向感覚を身に付けてくるのがわかります。自宅から目的地までの道順を正確に覚え、公園やお店がどっちにあるとか、近い・遠い、ということを覚えます。
 歩けば花や虫に出会いますが、心ゆくまで道草するようにしています。クルマで移動するより豊かな時間が過ごせます。また、家や公園では思い切り騒ぐのに、電車に乗ればナイショバナシ。お行儀もわかってきました。
 小さな子どもが多い街なので、私は危ないクルマをとても運転する気にはなりません。子どもを持つ親になってなおさら、その思いを深めました。狭い道も多いので、歩道設置や一方通行化など、親子で安心して歩ける道を増やしてほしいと思います。
 それから、買物に行って駐車場が無料だとなんだかソンした気分。歩き来店者への割引サービスがあればいいなあ、と思っています。

◆苦労体験も教育の一つ
[福井県金沢市在住・女性]
 部活動の試合や大会の時、保護者は子どもたちの送迎にクルマを出すよう求められます。ボーイスカウト活動においても、キャンプやサイクリング、ウォーキングの際に、装備の運搬や併走のためのクルマが必要とされ、クルマを出すという奉仕ができない申し訳なさを味わわなければなりません。
 でも大人のお膳立ての中で子どもたちを“難なく”活動させるという考え方を少し転じて、子どもたちにもっと苦労させ、危機感も体験させてこその教育があるのではないかと、いつも思っていました。
 「お母さんについておいで!」と自転車の先頭を走り、2人の子どもたちを従えていた時代は遠くへ去り、今では「待ってよー」と2人を見失わないように追いかけるのがやっとです。でもあの頃3人で、いろんなところへお弁当を持って、不便を覚悟で冒険に出かけた日々を過ごせたことは、私が子どもたちに残してやれた輝かしい財産です。

◆親の息遣いを身近に感じる
[東京都世田谷区在住・男性]
 私の「クルマなし子育て」は積極的に「クルマなし」ではなく、条件が適(かな)った結果なので“押し”は弱いのです。つまりは「自転車子育て」です。
 子どもにとって、乗り物に乗せられて運ばれるという点ではクルマと変わりありませんが、クルマという空間に閉じこもるのではなく、周囲の“風”を感じながら行くことはできているのではないでしょうか。
 それから親がエンジンとなり、上り下りをふうふう言いながら走るのを間近で見ているのですから、親の苦労の息遣い(?)が分かるのではないかとも思います。
 クルマの便利は享受できないので、その分を上回るメリットを具体的に示すのは難しいです。たぶんクルマの便利は今のためのもので、「クルマなし子育て」は未来に効果が表れるものなのでしょう。それは種を蒔いているようなものです。種を蒔く人が、今ただちに果実を得られないからといって悲観するでしょうか。
 結果はじわりと出てきます。子どもが自動車公害や交通渋滞のニュースを見ると、「なんでクルマなんて乗るんだろうね」と言うようになりました。自分の日頃の生活がクルマなしでもできているという確信による発言であると思います。

◆「共」の生活を満喫
[東京都稲城市在住・女性]
 クルマ利用がもたらした社会への影響は、正負様々に及んでいます。
 グローバル化が進み地域格差がなくなったことや、日本が長寿社会になったことも、もしかしたらクルマ普及がもたらしたものの1つかもしれません。
 しかし一方、ローカル(地域)の衰退を招き、かつては豊かだった子どもの遊び環境を奪って交通事故を増やしたことは、負の影響です。子供がのびのびと暮らすためには、大人が多少の我慢をすることが必要であり、交通事故の怖さを思うと、子供の命を一手に握っている大人こそがクルマ利用についてもっと慎重に考えるべきだと思うのです。
 私は4人の子どもをあえてクルマなしで育てましたが、ゆっくりとした子育てができたと思います。流れる雲や道端の草とも会話しながら、子どもとの生活を楽しめたと感じています。またクルマがない分、近所の方に協力を頼んだりして、「個」の暮らしから「共」への暮らしが満喫できたと思っています。
 今は郊外型大型店舗へクルマで家族で出かける生活が一般的です。でもたまに徒歩で近所の商店へ出かけて買い物をするのもお勧めです。きっと様々な人との触れ合いがあることでしょう。
 クルマ利用を減らすことが私の願いです。そのためにはクルマを利用しなくても生活できるまちづくりを考えなければ、根本的な解決には至らないと思います。

◆長く歩ける体力がつく
[茨城県筑波郡在住・男性]
 出かけるときに、羽織る上着を自分で選ぶ。その日の行動を考えて荷物とバッグを選ぶ。自分のものは自分で持つ。小学3年生の娘がそんな当たり前のたしなみを身に付けたのは、クルマの快適さに頼らない生活をしているためでしょう。
 そしてなにより、子どもたちに体力がついたという実感があります。
 娘は2歳を過ぎたころにベビーカーを卒業し、その後はひたすら自力で歩いています。
 3つか4つのころ、三浦半島の海岸に遊びに行きました。バス停から海岸まで、クルマでは入れない道を1時間ほど歩くのですが、娘は黙々と着いてきました。さんざん遊んだ帰り道はさすがに抱っこをしたものの、よくぞへばらずに歩いたなと、わが娘ながら感心しました。
 2歳の息子も散歩が好きです。もっぱら細君を引き連れて、天気がよければ2時間近く、近所をうろうろしています。公園でひとしきり遊び、ショベルカーを目当てに住宅の建築現場に足を延ばし、顔見知りの犬に声をかけ、ドングリや枯れ葉を拾って帰ってきます。
 そういう散歩につきあうのも楽ではありません。けれども、目新しい物を発見して輝く息子の表情を見たり、草花に興味を持つようすが目にできるのは、日常生活の中にある小さな喜びです。

◆教師としてクルマなしを貫く
[三重県津市在住・男性]
 41歳の教師です。積極的にクルマを所持しない主義を貫いています。
 私にその決意をさせたきっかけは、2つあります。1つは、1995年2月17日の朝日新聞の「天声人語」です。そこには、先生が子どもの状態や心情を推し量る力が無くなってきていることが述べられ、原因の1つに自動車通勤が挙げられていました。私はこの日、「教師を続けていくかぎり、生徒と同じ交通手段で学校に通う」と決めました。
 もう1つは、『クルマが優しくなるために』(ちくま新書)を読んだことです。この本では“クルマに乗ることが、人として人間社会で生きる上でいかに野蛮な行為か”が語られており、とても新鮮な視点でいちいち納得できるものでした。読み終えて私は、「自分の足としてのクルマは持たない」ことを決意しました。
 我家には2人の子どもがいます。息子は5歳で自転車に乗れるようになり、下の娘は3歳で乗れるようになりました。今、娘は6歳ですが、一家4人アヒルのように並んで10キロぐらいの遠出はへっちゃらです。
 私は高校でバドミントン部の顧問をしています。公共交通機関で大会や練習試合に出掛けるので、自分で使う道具は自分で責任を持って持って行くことになります。これは、選手としてとても大事なことだと思います。
 新入生に私がまず指導することは、車内でのマナーや不正乗車をしないといったルールです。生徒たちは3年間のうちに、時刻表の読み方や、土休日回数券による節約法など、ルール内で合理的に生きていく力をしっり身につけて卒業していきます。
 クルマで子どもたちを運ぶことは、生きる力を育む機会を奪っている可能性が大きいと私は思います。


「クルマ社会を問い直す会」