「ガソリン税国会に寄せて」

清水真哉

 この三月末をもって道路特定財源の現行の暫定税率を定めた租税特別措置法の規定が失効することから、参議院で多数を持つ民主党は、暫定税率を廃止して道路特定財源は一般財源化することを主張し、衆参捩れ状態にある国会において与野党は全面対決することとなった。暫定税率が廃止されればガソリンは値下げとなることから、今国会は「ガソリン税国会」と俗称されることとなった。

■政界の迷走

 道路特定財源の一般財源化は小泉政権下から既に構造改革の柱となっていたはずだが、党内のいわゆる抵抗勢力の存在により、実現には至らずにきている。
 そこに、参議院で多数を占めるに至った民主党が、たまたま租税特別措置法の規定が期限切れを迎えるのを好機に、道路特定財源の問題に切り込んだことは一定の評価が出来る。しかし特定財源の維持か一般財源化かという議論に、大向こう受けを狙ってか、ガソリン税の値下げという地球温暖化対策の必要性が言われる時代にありうべからざる第三の選択肢を持ち出して議論を混乱させたのには、高速道路無料化論に始まるこの政党の無定見が現れている。民主党は高速道路無料化を主張してきた訳だが、暫定税率を廃止した上で一般財源化をした場合、高速道路の維持管理費はどこから捻出するのであろうか。
 社民党も共産党も民主党の議論に引きずられ、暫定税率の維持が言い出せなくなってしまっている。環境派からの突き上げを意識してか、代わりに環境税と言っているが、リットルあたり二円から三円ではまやかしでしかない。暫定税率分の25.1円を超える税額を主張してこそ、これからの時代の環境税としての意義が出てくるはずである。
 一方、与党の自民党は、暫定税率を維持したまま一般財源化するという本道を進んでいた小泉改革から明確に後退し、利権政党に戻ってしまった。
 公明党は国土交通大臣を擁して、「地方にも道路が出来れば必ず企業が来てくれるのです」などと非論理的なことを言ってまで道路利権を守る最前線で戦うとなると、この政党の存在意義に疑念を抱かざるを得ない。
 国民の人気取りをしようとする民主党、相も変わらず利権を守ろうとする自民党、国民はそのどちらにも愛想を尽かしている。道路特定財源の問題ではどの政党も未来の日本へのヴィジョンを持っていないことが明らかになった。
 地方政治家では、政治家に成りたての東国原英夫宮崎県知事が、いつの間にか道路特定財源維持の急先鋒と化していることに、この国の政治思考の硬直した様を思い知らされる。
 道路特定財源の維持に地方がこだわるのは、それが所得の再分配という政治的機能を担っているからである。しかし道路は効用の大きいものから順次造っていくであろうから、いずれ利用度の少ない、無駄と見なさざるを得ないものしか残らないのは必然である。所得の再分配のためには道路特定財源は一般財源化して、森林維持や福祉といった支出項目として地方に予算を回すよう切り替えるべき時期は既に来ている。建設業から他の業種への転業は容易ではなかろうが、このままでは「道路栄えて国滅ぶ」だけである。苦しくても努力して乗り越えなくては、日本に次の時代は来ないであろう。
 時代の潮目はすっかり変わってしまったのである。

■歴史的転換点に立つ日本と道路財源改革

 このガソリン税国会は参院における与野党逆転と道路諸税の期限切れが重なったという偶然の政局が引き起こしたようにも見えるが、その実、非常に長期的なスパンでの歴史的な転換が背景にあるのである。地球規模では深刻化する温暖化、国際的な原油高騰、国内的には人口減少による縮小社会の始まり、危機的な状況にある国家財政などの大きな流れの中で、道路特定財源の問題も考えていかなくてはならない。
 地球温暖化問題はもはや一刻の猶予もならないところまで来ている。ぎりぎり止むを得ないところ以外では、自動車の利用は許されてはならないのである。ガソリンの価格をリットル200円にでも300円にでも引き上げて自動車の利用を抑制しなくてはならない位、事態は切迫している。道路容量を今以上に増大させるなど、もはや論外なことなのである。
 話は少しずれるが、私見によれば温暖化対策としての京都議定書という枠組みは、根本のところで発想が転倒している。京都議定書では化石燃料の消費国の側で、その燃焼による二酸化炭素の発生を抑制させようとしている。これは間接的で迂遠であり、あまり賢い方法とは思えない。本来、地下資源の採掘の段階で規制をするべきである。石油、石炭、天然ガスなどの地下資源を有するすべての国が一堂に会し、自国にある化石資源を一年にどれだけ採掘してよいかを定めるのである。そしてその総採掘量を毎年2%位ずつ削減していく。化石資源の消費が直接抑制されるので、二酸化炭素以外の温室効果ガスは別として、CO2の排出量を考慮する必要性は減少する。採掘量を厳しく制限すれば当然価格は高騰するので、資源保有国としても自国の資源を保存しつつ同等の収益を得られるからメリットがある。価格が高騰すれば、政治がインセンティブを与えなくても省エネルギーは進んでいく。化石燃料採掘規制こそが最も効果があり、筋の正しい地球温暖化対策である。
 甘利明経済産業相などは新興国での需要増を理由に産油国に増産を促す発言をしているが、それが温暖化対策に逆行するということにも気付かないのであろうか。
 原油価格は高止まりしている。原油価格の高騰は投機マネーの流入による一時的なものといったことを言う人がおり、政治家の中にもそれを信じている人がいるが、投機マネーの流入も強い実需の裏付けがあってこそで、原油価格が以前のような水準にまで戻ることはもはやないと知るべきである。
 原油高と温暖化対策から、原子力発電がルネサンスを迎えつつある。しかし処分の方法のない放射性廃棄物を後に残す原子力発電は後世の人間に対する犯罪行為であって許されることではない。バイオマス、風力、太陽光などは人類がこれまでも伝統的に利用してきた資源であり、その量的な限界から石炭や石油が利用されるようになったという歴史を知れば、それに大きな期待を掛けることの虚しさが分かるであろう。人類は徹底した省エネ社会を作っていくしかないのであり、それが真に未来をみつめる政治が進んでいく道である。
 人類はまだ石油がもたらした束の間の栄華がいつまでも続くと思っている。今の繁栄は人類の進歩、科学の英知がもたらしたものと信じているが、それは全て石油が可能としているのである。石油が無くなれば全ては露と消え、我々は大正以前の生活に戻るのである。我々は今のうちから浪費を廃し、生活から徹底的に無駄を削がなくてはならない。
 ガソリン税の引き下げ議論が世論を刺激するのも原油高がドライバーに重荷となっているからであろうが、ガソリン税を引き下げて日本の自動車ユーザーの購買力を高めても、世界的な原油の奪い合いという状況の中では更なる原油価格の高騰を招き、産油国を儲けさせるだけである。ガソリン税を掛けて税収を確保しつつ消費の抑制を図ったほうが国家として賢明である。
 近頃の急激な資源価格の急騰で人々が気付き始めているように、日本が自国には無い世界の資源を潤沢に利用できた幸福な時代は過ぎ去りつつある。思えば二十世紀に日本が経済大国として繁栄できたのは、中国やインドといったアジアの大国が植民地支配とその後遺症に苦しみ続けたことによる漁夫の利だった。日本が植民地にならずに済んだのは、位置的に欧州から最も遠かったという地政学的理由による。中国、インドが順当に発展してくれば、日本がそれらの国の後塵を拝するような事態も覚悟する必要がある。今は分不相応な贅沢を忘れ、のしかかる借金を一日も早く返済し、身の丈にあった経済システムに切り替えるべき国家の岐路なのである。

■特定財源の過ちと暫定税率の正しさ

 こうした時代認識を頭におくと、道路諸税はいかにあるべきか、別の発想が出て来よう。
 道路特定財源は暫定税率を本則税率にした上で一般財源化するべきである。
 そもそも田中角栄が道路特定財源という制度を設けたこと自体が過ちであった。自動車や燃料に課税することを運転者たちに納得させるための方便だったのであろうが、税についての間違った考えを国民に植え付けた罪は大きい。税はサーヴィスに対する直接の対価ではないのである。自動車ユーザーが支払った金だから自動車ユーザーのために使えという主張がまことしやかに叫ばれるが、その論理を貫いたらタバコ税は喫煙者のために使え、酒税で居酒屋を整備せよということになる。税を払えない貧困者にはいかなる行政サーヴィスも不要ということになってしまう。
 自動車は交通事故や排気ガス、二酸化炭素排出、騒音、その他諸々の形で社会に負荷を与えており、自動車や燃料に課税することにより利用の抑制を図ることは十分合理性がある。暫定税率分を含めても、税率はまだ十分とは言えない。
 さらに温暖化防止のためには、炭素税を上乗せで課税することも必要である。これはガソリンという石油製品の一品目ではなく原油の時点で掛けるものであり、天然ガス、石炭にも同様に課税する。
 自動車ユーザーは受けている利益以上に税を払ってるかのように言うが、それなら地方で一般財源から道路に支出しているのを止めるべきであろう。しかしこれには、国の直轄事業には地方の負担金が必要であるという事情がある。これを補助裏負担と呼ぶらしく、民主党は廃止を主張している。地方に負担させる理由は補助金の申請が安易にされないための歯止めであろうと思われ、これは税の国と地方の間での配分の仕方の問題であり、難しい点はある。だがいずれにせよ、一般財源から道路に多額の支出をしていることに変わりはなく、道路に支出しないのならガソリン税を引き下げよという道路ユーザーの主張はその分根拠を失っているのである。

■道路建設の錯誤

 クルマ社会を問い直すという立場から気を付けなくてはならないのは、菅直人などもする自動車は生活必需品だから税は安くあるべきという議論である。この議論は現にクルマに乗らずに生活している人がいることを忘れている。自動車はもともと生活必需品だったのではなく、間違った政策により、それがないと生活がし難いように国土を改造してきてしまったのである。厳しい課税により、その流れを逆転させる必要がむしろある。
 民主党は、特定財源を一般財源化した後も必要な道路は造ると言っている。今回の国民的な議論においても道路の必要性の判断は費用対効果によってのみ計られているが、そこにはそもそもこれ以上道路を造ってよいのかという観点が欠如している。
 道路建設は山林や田園を破壊し、道路拡張は歴史的建造物を解体させ町を壊す。
 道路族が主張する、道路を造らないと地方が疲弊するというのは幻想で、道路を造ることにより地方が衰退するという真実にいずれ目覚めることになる。
 地方ではクルマがなくては暮らせないと言われるが、本当にそうかという反省を欠いた安易な決まり文句でしかない。まず地方といっても都市部と農村山間部では事情が異なるはずである。ところが今はそれなりの規模の地方都市でも自動車利用主体の町が形成されてしまっている。
 道路建設によって出来る自動車で暮らし易い町は即ち徒歩で暮らし難い町である。歩いて暮らせない町を人々はいずれ見捨てていくであろう。これが道路建設がもたらす第二の町破壊である。現在、郊外に住んでいる高齢の夫婦が一軒家を売って都心のマンションに住み替えるというトレンドがある。車がなくては暮らせない町とは、自動車を運転できない人、自動車を持てない人を排除する町である。そのような町から人が出て行くのは理の当然である。クルマ社会と化した地方都市の衰退は必然なのである。
 そして一方で東京は公共交通が発達しているからクルマなしでも暮らせると言われるが、首都圏の通勤通学時間の長さは、決して快適で文化的な生活環境とは言い得ない。
 地方都市で鉄道と路面電車とバスによる交通網を形成し、その路線沿いに公共施設、商業施設、オフィス、工場に住宅を配置すれば、公共交通のみによる、かつ移動時間の短い、フットワークの軽快な効率的な都市を作れるはずなのである。

■日本の未来を見通した選択を

 道路特定財源を一般財源化した後は、まず国債の返済を第一に考えるべきである。
 自動車が通る道路は原則的に建設・拡幅するべきではない。今有るだけの道路インフラを活用し、縮小社会に備えるべきである。既に拡幅した道には自転車道を整備したり、路面電車を通したりして有効活用するのがよい。
 これまでに建設された道路設備を維持するだけでも、相当の国力を要するであろう。宮崎県の高千穂鉄道は、台風で流された鉄橋の再建が出来ず経営を断念した。昔の日本に出来たことが今の日本には出来なくなっているのである。道路についてもこれから同じことが本格化していくであろう。今、日本全国で三十年ほど前に建てられた信号柱の腐食が進んでいるのに、その交換も思うに任せていないとのことである。
 我々日本国民に残された選択の余地はさほど広くはないのである。